第68回国際がん研究講演会要旨
ローレンス・J・マーネット博士 (米国ヴァンダービルト大学)
<東京講演会>

第68回国際がん研究講演会は、米国ヴァンダービルト大学の教授で、かつChemical Research in Toxicologyの編集長を務めている、ローレンス・マーネット博士をお招きして、平成21年3月19日に国際研究交流会館にて「脂質およびDNAの過酸化物質による内因性DNA損傷の生物化学」というタイトルで開催されました。マーネット博士は、長年、脂質の過酸化物質であるマロンジアルデヒド(MDA)による様々なDNA損傷に着目し、これら内因性のDNA損傷の発がんへの関与について研究してきました。細胞の"がん化"には、ジェネティックな変化とエピジェネティックな変化が関与することが知られており、脂質の過酸化物質等の内因性の変異原・がん原物質は、DNAと付加体を形成して突然変異を誘発し、がん化を促すことが推測されています。講演会では、MDAによる多数のDNA損傷の化学構造の解析や突然変異誘発および修復のメカニズム、生体試料中からの検出等を含むこれまでの成果について分かりやすく解説頂きました。
マーネット博士の研究経歴
マーネット博士は1973年にデユーク大学で化学の博士号を取得され、その後カロリンスカ研究所およびウェイン州立大学に移動され、1983年にウェイン州立大学の化学講座の教授に就任されました。1989年にヴァンダービルト大学に移られ、生化学講座および化学講座の教授に就任されました。また、同大学医学部のハンコックJr. 記念がん研究所の所長の職も勤められ、2002年からはヴァンダービルト 生物化学研究所の所長も兼任されています。マーネット博士は、長年、脂質の過酸化物質による様々なDNA損傷に着目し、これら内因性のDNA損傷の発がんへの関与について研究してきました。一方、がんや炎症におけるCOX-2の役割に注目し、化学構造を基盤とした選択的な阻害剤のデザインといった研究手法で抗炎症剤やがん予防薬等の開発にも携わっています。
脂質の過酸化物質であるMDAによる様々なDNA損傷
MDAは脂質の過酸化およびプロスタグランジンの生合成過程で内因性に生成する求電子化合物です。マーネット博士は、MDAは生理的な条件下においてDNAの構成成分であるデオキシグアノシン(dG)、デオキシアデノシン(dA)、デオキシシチジン(dC)と反応し、付加体を形成することを見いだしました。中でも、dGと反応した化合物の生成量が他の塩基(dAおよびdC)に比べ多く、その化学構造はグアニンのN2とN1にMDAが環を巻くように結合し、その結果、3環の化合物(M1dG; 3-(2-deoxy-β-D-erythro-pentofuranosyl)pyrimido[1,2-α]purin-10(3H)-one)が形成されます。また、このM1dGはDNA自身の過酸化によっても生成されることがマーネット博士らにより明らかにされています。
MDAの突然変異誘発と修復のメカニズム
マーネット博士を中心とした最近の研究成果から、M1dGはバクテリアおよび哺乳動物細胞において変異を誘発することが明らかになっています。その変異パターンの起こり易さは、殆どがM1dG→dT、M1dG→dAであり、大腸菌におけるこれらの変異の誘発には、その修復系であるSOS応答により誘導されるポリメラーゼVが関わっていることが示唆されています。また、CpGの繰り返し配列にM1dGが入った場合にはフレームシフト型の変異が誘発されることが、マーネット博士らによって明らかにされました。一方、哺乳動物細胞由来の損傷乗り越え型ポリメラーゼ(ヒトDNAポリメラーゼ 組み換え体)を用いて、同様の実験を行った結果、M1dGの反対側にはdA、dCがそれぞれ52%、16%の確立で取り込まれることが明らかとなりました。また、フレームシフトも31%の確立で誘発されることがわかりました。さらに、DNA中に生成されたM1dGは塩基除去修復機構により取り除かれることも明らかとなりました。
M1dGの生体試料中からの検出
DNA中から塩基除去修復機構により取り除かれたM1dGの一部は尿中や糞便中に排泄されます。マーネット博士らはこの点に注目し、実験動物およびヒトの排泄物中からのM1dGの検出を試みました。安定同位体であるC14で標識したM1dG([C14] M1dG)をSDラットに静注し、一定時間後の尿および糞便中に排泄されたC14をAMS(Accelerator Mass Spectrometry)を用いて測定したところ、尿中に49%、糞便中に51%の割合で排泄されることがわかりました。また、尿中に排泄されたC14のうち約70%はM1dGの代謝物である[C14] 6-oxo-M1dG由来であることがわかりました。一方、実際に、ヒト24時間畜尿中のM1dGを抗体を用いて濃縮し、LC-MS/MSにより分析を行ったところ12fmol/kgという濃度でM1dGが検出されました。しかしながら、さきのラットの実験からも推測されるように、M1dGは生体内でその多くが代謝され6-oxo-M1dGとしてヒト尿中に排泄されることが推測されます。内因性の変異原物質であるMDAのヒト曝露レベルを明らかにするために、6-oxo-M1dGが良いバイオマーカとなり得ることが示唆されました。
最後に
MDAは脂質の過酸化およびプロスタグランジンの生合成過程で内因性に生成し、私たちの生体内でDNAと反応し、付加体を形成することがわかっています。タバコ煙に含まれる発がん物質のような外因性の変異原・がん原物質は禁煙をすることでそのような物質からの曝露を避ける事が出来ますが、脂質の過酸化物質のような生体内で生成される変異原・がん原物質は私達が普通に生活する上で曝露を避ける事が出来ない物質であると考えられます。マーネット博士を含む多くの研究者が、このような「内因性要因によるDNA損傷のメカニズム」に関する研究に携わっていますが、このような分野の更なる進展が「発がんのメカニズム」を解明する上で重要な鍵となるものと考えられます。
<名古屋講演会>
がんに関連した化学毒性学研究の世界的リーダーであるローレンス・マーネット教授(ヴァンダービルト大学医学部)による講演会が、3月23日(土)、名古屋大学野依記念学術交流館で開催されました。同講演会は、日本学術振興会レドックス生命科学第170委員会および文部科学省新学術領域研究(研究領域提案型)「活性酸素のシグナル伝達機能」との共催により開催されました。講演会のテーマは「レドックス研究とケミカルバイオロジー」であり、マーネット教授以外に、8名の国内研究者によりますシンポジウムとして盛大に開催されました。マーネット教授を含め、国内研究者もいずれ劣らぬ一線級の研究者を招聘したこともあり、多くの聴衆が詰めかけ、活発な質疑応答が行われました。
マーネット教授が本講演会で取り上げたテーマは、酸化ストレスとも関連の深い脂質過酸化反応でありました。脂質過酸化反応は、生体膜などを構成するリン脂質やコレステロールエステルなどの不飽和脂肪酸が酵素的・非酵素的に酸化される化学反応であり、様々な酸化脂質を生成します。それらの中には、脂溶性シグナル分子として細胞膜表面や核内などの受容体に作用するものが知られ、がん、炎症、動脈硬化発症などさまざまな病態との関連性が示唆されており、創薬に向けた研究が活発に進められております。例えば、代表的な生理活性脂質であるプロスタグランジンも脂質過酸化反応を介して生成される化合物であり、この反応に関わる酵素の阻害剤(医薬品)開発などにつきましても、古くから研究が行われてきております。マーネット教授は、脂質過酸化反応において生成される多岐にわたる反応性化合物の中でも、アポトーシス誘導性アルデヒド化合物(4-ヒドロキシ-2-ノネナール)に着目し、講演の前半では標的タンパク質同定などのケミカルバイオロジー研究を紹介されました。また後半では、大腸がん細胞を用いた分子メカニズム解析研究を中心に解説され、特に4-ヒドロキシ-2-ノネナールにより誘導されるアポトーシスの制御における熱ショック応答の関与を最新のデータを盛り込みながら紹介されました。
マーネット教授は東京および名古屋での講演会前後に、奥様(ナンシー夫人)と日本の春をとても堪能されました。高山・奥飛騨ではまだ雪深い日本アルプスに感嘆の声を上げ、また初めて訪れた古都奈良では東大寺などのそのスケールの大きさに感動されるとともに、卒業式当日の華やかな奈良女子大学を訪問することができ、とても喜んでおられました。我が国のがん研究やケミカルバイオロジー研究の最先端を垣間みていただくとともに、こうした「日本の姿」をみていただける機会が持て、とても意義深いものになりました。既にマーネット教授夫妻が日本を去り2ヶ月が過ぎましたが、今思い返してもマーネット教授の国際がん研究講演会をお世話できましたことは、私にとりましてとても幸運であったと心から思っております。